千利休の生涯と『利休七則』 〜前編〜


千利休といえば、誰もが知っている戦国時代〜安土桃山時代に活躍した茶人です。


侘び茶を完成させたことでも広く知られていますね^^


また、織田信長、豊臣秀吉に仕えていて、


秀吉の政事にも関わっていたほどの影響力を持った人物とされています。




「利休」と言う名前で知られていますが、


本名は、田中与四郎、号は宗易といいました。


「号」とは、創作活動などを行うときに使う名前で、

現代でいう「芸名」「ペンネーム」のようなものです^^


「利休」という名前は、1585年に正親町天皇から与えられた名前です。


この名前で活動していたのは、1591年に亡くなるまでなので、

茶人としての人生のほとんどは宗易を名乗っていました。



【利休の生い立ちと茶人になるまで】


利休は、大阪堺の魚問屋『ととや』に生まれました。


当時の堺は貿易で栄える国際都市であり、京都に匹敵する文化の発信地でした。


父は堺で高名な商人で、利休は店の跡取りとしての品位や教養を身につける為、

16歳で茶の道に入りました。


そして、18歳の時に当時の茶の湯の第一人者・武野紹鴎(じょうおう)の門を叩き、

23歳で最初の茶会を開きました。




【利休と信長】


1568年、利休が46歳の時、国際貿易で栄えていた堺に信長が目をつけました。


信長は圧倒的な武力で堺を直轄地にし、

堺や京の町人から強制的に茶道具の名品を買い上げて、


武力・政治だけでなく文化の面でも覇権を目指しました。



信長は許可を与えた家臣にのみ茶会の開催を許し、

褒美に高価な茶碗を与えるなど、あらゆる面で茶の湯を利用していきました。



当時の戦国武将たちにとっての名物茶器は、

今とは比べものにならない程の価値で、まさに一国一城に値するものでした😲


高価な茶道具を持つことは戦国武将たちにとってのステータスだったわけです!!



信長は堺とのパイプをより堅固にするべく、政財界の中心にいて茶人でもあった、

今井宗久、津田宗及、利休の3人を茶頭として重用しました。



彼らにとっての最高の栄誉は信長から茶会の許しを得ることでした。

(利休は、51歳、53歳の頃に信長主催の茶会で活躍した)



そして、茶の湯の指南役となる利休は一目置かれ、重宝されるようになりました。




利休60歳の1582年6月1日、

本能寺で信長が自慢のコレクションを一同に披露する盛大な茶会が催されました。



そして、まさにこの夜、(6月2日)


信長は明智光秀の謀反により襲撃!!


これが有名な本能寺の変ですね



この時、有名な茶器もたくさん消失してしまったみたいです。




【利休と秀吉】


そして、後継者の豊臣秀吉は信長以上に茶の湯に熱心で利休を重宝しました。



大名の大友宗麟が「秀吉に意見を言えるのは利休しかいない」と言ったほどの関係だったそう。


1587年、利休が65歳の時、秀吉は実質的に天下統一を果たしました!


その記念と権力誇示を目的として、

史上最大の茶会「北野大茶湯(おおちゃのゆ)」を北野天満宮で開催しました!!



公家や武士だけでなく、百姓や町民も身分に関係なく参加が許されたというから、


まさに国民的行事。



この時用意された茶席はなんと800席以上だったらしいです!!

もはやピンとこないスケール!笑



秀吉は「総合演出は利休が担当するから茶碗1つ持ってくるだけでいい」と広く呼びかけ、

満足気に自ら茶をたて人々にふるまったという。



これほどの国民的行事の総合演出を利休に担当させていたということから考えても

秀吉は利休に全幅の信頼を寄せていたということが推察できますね( ´ ▽ ` )



【秀吉と利休のエピソード】


ある初夏の朝、

利休は秀吉に「朝顔が美しいので茶会に来ませんか」と使いを出しました。


“満開の朝顔の庭を眺めて茶を飲むのはさぞかし素晴らしいだろう”

と楽しみにやって来ると、


庭の朝顔はことごとく切り取られて全くない。


ガッカリして秀吉が茶室に入ると、、、


床の間に一輪だけ朝顔が生けてありました。


一輪であるがゆえに際立つ朝顔の美しさ!!



秀吉は利休の美学に脱帽したといいます。



利休のたった2畳の茶室で二人きりで優雅な時間を過ごされていたのでしょう(*´∀`)



しかし、

そんな蜜月関係だった2人も徐々に思想的対立が目立つようになりました。



ここまでで前編。


明日は、

秀吉との間に起こったある事件と『利休七則』について…


後編は明日投稿します٩( 'ω' )و


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日本茶には喉の渇きを潤すだけでなく、味わい深いうま味や香りが詰まっており、飲むと心を穏やかに潤す力があります。 清寿園では一人でも多くの人に、日本茶の美味しさ、愉しさ、奥深さを伝えると共に、千利休が作り上げた「詫び茶」の世界観を象徴する「市中山居」という言葉のように、お茶を飲むことで、たとえ街の喧騒の中にいても心が落ち着き、山の中にいるような静けさをご提供できるよう、日々精進していきたい

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