シーボルトと日本茶の意外な関係

シーボルトといえば、中学の歴史の授業で登場するので名前ぐらいは知ってる方も多いかと思います。

今、名古屋市博物館で「よみがえれ! シーボルトの日本博物館」ってのが開催されているんですが、

以前、シーボルトがお茶好きだったって話を聞いたことがあり、気になってちょっと調べてみました。

教科書に載ってる内容といえばこんな感じ。

シーボルトは、江戸時代後期に長崎オランダ商館の医師として来日し、診療所を兼ねた学塾を開いて高野長英らに西洋医学などを伝えたドイツの医者。

父親も名門大学の医師で名家の生まれだったみたいですね。

「シーボルト事件」:シーボルトが帰国する際に当時鎖国の為、国禁だった日本地図(伊能忠敬らが作った)などを持ち帰ろうした罪で日本出禁の刑になった。


因みに、高野長英は師であるシーボルトが国外追放された時に、幕府の対応を批判した罪で牢獄に入れられてしまいます。

一度は脱走して、顔を硝酸で焼いて整形して逃亡します🤕

しかし、逃亡から6年後、潜伏先を幕府の追っ手に見つかり、奉行所の役人相手に大立ち回りを演じた後自害したと言われています。


シーボルトは、在日中、日常的にお茶を飲んでいてお茶に興味を持ったみたいで、

帰国後、お茶の製法・栽培方法などを詳しく記した『NIPPON(日本)』という本を執筆し、海外に日本茶を紹介してくれたみたい\(^o^)/

彼が持ち帰った「宇治製茶図巻」などの資料やガラスの瓶に入った標本はオランダの植物学博物館や自然史博物館で今も保管されているみたいです😲


また、あのペリーさんにも影響を及ぼしたみたいで、

開国を迫ったペリーに対して「武力によって開国を迫るのは間違い!平和的な解決を図るべきだ!!」という手紙を出していたそうです。

そして、ペリーは来日前にシーボルトの『NIPPON(日本)』を読んで事前に日本の事を勉強していましたみたいです。


因みに、ペリーが初めて来日した時にお茶を飲んでいたみたいです。

ペリーとの交渉に臨んだ幕府の高官に随行していた近江出身の学者が地元のお茶である膳所茶を淹れてペリーに飲ませて、ペリーも大変気に入られたみたいです^^



参考記事はこちら⇨

お茶の清寿園

日本茶には喉の渇きを潤すだけでなく、味わい深いうま味や香りが詰まっており、飲むと心を穏やかに潤す力があります。 清寿園では一人でも多くの人に、日本茶の美味しさ、愉しさ、奥深さを伝えると共に、千利休が作り上げた「詫び茶」の世界観を象徴する「市中山居」という言葉のように、お茶を飲むことで、たとえ街の喧騒の中にいても心が落ち着き、山の中にいるような静けさをご提供できるよう、日々精進していきたい

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