日本茶輸出貿易の先駆者 〜女性商人 大浦 慶〜



今日は、久しぶりのお茶の歴史について、、、



日本茶輸出貿易の先駆者 大浦慶

大浦慶は、日本茶輸出貿易の先駆者と言われる、

江戸時代末期、幕末から明治にかけての女性商人で、


ペリー来航の年の嘉永6年(1853年)、

大浦慶は日本が開国すれば、海外相手に本格的な貿易が始まり、緑茶の輸出もされる。


緑茶を知り合いのオランダ商人を介して欧米に紹介したら売れるのではないか!?


と時代の流れを読み、

後年、東インド会社の重役にもなったオランダ人のテキストルに嬉野茶を見本を預け、

イギリス、アメリカ、アラビアの3ヶ国へお茶のサンプルを渡しました。



それから3年後、開国後の安政3年(1856年)にイギリスの商人、W・J・オールトが来航しました。


そこで、テキストルに託した茶の見本を見せ、巨額の注文を受けました!!


受注した緑茶は1万斤!!

嬉野茶だけでは足りず、九州一円の茶の産地を巡り、

やっとのことで1万斤を集め、無事、アメリカに輸出されました^^


これが日本茶輸出貿易の先駆けとなりました٩( 'ω' )و



幕末の志士たちを支援

その後、文久元年(1861年)に南北戦争が勃発し、

一時的に輸出は停滞しますが、慶応元年(1865年)に終結した途端、緑茶の需要が爆発的に増え、

莫大な利益を得ることで豪商へとのし上がり、大浦慶の名は広く知られるようになりました!!


彼女は、輸出業で得た利益によって、幕末の志士坂本龍馬をはじめとする亀山社中や、

陸奥宗光、大隈重信、松方正義らの活動を援助しました!


今で言うところのパトロンとして幕末の政局に関わるようにもなりました(^^)



しかし、神戸や横浜などの開港が相次ぎ、長崎からの輸出量が激減。


戊辰戦争が終結し、東京遷都と同時に、緑茶の生産地は急速に静岡に移りました。


それに伴って、長崎での緑茶業はしだいに力を失っていきました…。



「遠山事件」

追い討ちをかけるように、

明治4年(1871)大浦慶44歳の時、「遠山事件」と言われる詐欺事件に巻きこまれます。


それによって、全財産を失い、十数年におよぶ失意のなか、57歳の生涯を閉じることになります。

その後、茶業以外の商売にも着手して、晩年には、借金は完済していたんだそう^^



明治以降のお茶の輸出

明治10年ごろ、緑茶は農業振興上有望な農作物と位置付け交易政策として多く輸出されました。

第二次世界大戦中により一時輸出量が激減しましたが、


戦後食糧援助の見返り物資に茶が指定されると輸出量は順調に回復し、

昭和29年には、17,178t/年と輸出量のピークを迎えます!


中国の内戦中の輸出禁止に伴い、中国の紅茶の輸出が再開するまでの間は、

日本からの紅茶の輸出も盛んに行われました!


しかし、それ以降は徐々に減少していき、平成3年には、253t/年と最低を記録しました…。



最近は、アメリカ中心だった輸出も台湾、シンガポール、カナダ、タイ、ドイツなど販路を広げ、

特に、アジアでの伸びが目立っています!


海外のスーパーとかでも日本茶がたくさん置いてあるみたいですが、


大浦慶のような商才を発揮して、

いつか清寿園のお茶も海外のイケてるショップに並ぶようになったらいいなあ。

と、思いました。笑



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お茶の清寿園

日本茶には喉の渇きを潤すだけでなく、味わい深いうま味や香りが詰まっており、飲むと心を穏やかに潤す力があります。 清寿園では一人でも多くの人に、日本茶の美味しさ、愉しさ、奥深さを伝えると共に、千利休が作り上げた「詫び茶」の世界観を象徴する「市中山居」という言葉のように、お茶を飲むことで、たとえ街の喧騒の中にいても心が落ち着き、山の中にいるような静けさをご提供できるよう、日々精進していきたい

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