『御茶壺道中』について

・「御茶壺道中」とは??


江戸時代、幕府が将軍が飲むお茶を宇治採茶師に命じて将軍の元まで運ばせ、

この行列は「御茶壺道中」と呼ばれていました。


将軍に御茶壺を献上するまでは新茶の売買を禁じていました。



茶壺道中はとても権威の高いもので、大名行列ですら道を譲らねければなりませんでした。

また、街道沿いの村々には街道の掃除が命じられ、街道沿いの田畑の耕作が禁じられたほどです。


その時の様子を風刺して、百姓たちは、

「ズイズイ ズッコロバシ ごまみそズイ 茶壺におわれて ドッピンシャン ぬけたら(通り抜けたら) ドンドコショ」

と、童歌にしました。


御茶壺は厳重に封印され、

主に、中山道から甲州街道を経て江戸に向かいました。




・御物茶師


宇治には幕府の御用茶師として茶師三仲間が組織されていました。

その一つの「御物茶師」は将軍が使うお茶(御物)を扱い、禁裏御所にもお茶を納める茶師でした。

残りの二つ「御袋茶師」「御通茶師」は大名家や茶道宗家への出入りも許されていました。

幕府は全国の上流階級全てに茶師を通わせていました。


また、商人でありながら帯刀が許され、元締めの御茶頭取には代官職の地位が与えられました。


それ程まで地位が高かったのです!



【御茶壺道中の年表】


慶長18年 (1613):

三代将軍家光が、御茶師仲ヶ間の筆頭であった上林家(かんばやし)に命じ、

朝廷に献上するお茶と将軍家用の高級茶を宇治の茶師に作らせ、茶壺に詰めて江戸に献上させていました。


これが御茶壺道中の始まり。


その後、寛永10年 (1633) 御茶壺道中が制度化される。


・慶応3年 (1867) 江戸幕府の終焉に伴い、幕を閉じる。




明日も御茶壺道中に関するお話をさせて頂きますヽ(´▽`)/



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お茶の清寿園

日本茶には喉の渇きを潤すだけでなく、味わい深いうま味や香りが詰まっており、飲むと心を穏やかに潤す力があります。 清寿園では一人でも多くの人に、日本茶の美味しさ、愉しさ、奥深さを伝えると共に、千利休が作り上げた「詫び茶」の世界観を象徴する「市中山居」という言葉のように、お茶を飲むことで、たとえ街の喧騒の中にいても心が落ち着き、山の中にいるような静けさをご提供できるよう、日々精進していきたい

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