昨日の記事『利休の後継者たち』は安土桃山時代のお話。
今日の内容は、江戸時代です。
千利休が大成させた茶の湯は、
家元制度の確立により武家や町人によって支えられていきました。
江戸時代の茶人として有名なのが、
松江藩主の松平不昧(ふまい)、彦根藩主の井伊直弼。
各地の城下町においても茶の湯が流行し、
それに伴い、茶会で使われる菓子なども多く作られ、
この頃に多くの伝統文化が形成されていきました^^
その一方、煎茶を好む文人たちによって抹茶に拘らない新しい茶文化も発展していきました。
江戸時代初期、日本の茶文化に新しい要素加えたのが、
黄檗宗(おうばくそう)を伝えた隠元(いんげん)です。
中国福建省にあたりで盛んになっていた工夫茶(コンフーチャ)の製造に使われる釜を用いて
中国渡来の唐茶と呼ばれる釜炒り茶を日本に持ち込みました!!
(当時、鎖国時代だった為、長崎の出島に伝わりました)
このお茶は淹れた時の澄んだ水色(すいしょく)が特徴で、
抹茶とは違った味わいが、当時の文人を中心に愛好されました(*´-`)
このように、時代が澄んだ茶を求めた時、
1738年、京都宇治の永谷宗円が煎茶製法を完成させました٩( 'ω' )و
その製法は、良質な芽を蒸して、和紙を貼った焙炉の上で揉みながら乾燥させる。
というものでした。
抹茶のような粉末ではなく、急須に入れた茶葉を湯に注ぐ「淹茶(えんちゃ)」という
当時としては全く新しいお茶の楽しみ方でありました(^^)
因みに、急須は中国の茶壷(チャフー)が原型だと言われています。
その後の玉露製法の発明もあり、
徐々に庶民のお茶の消費量も増えていきました( ´▽`)
(玉露については過去の記事に詳しく書いてあります!)
煎茶消費量拡大に伴い、江戸では、茶問屋の組合が結成され
江戸幕府に運上金を納める代わりに茶の流通を独占する権利を持ちました!
次第にお茶が生活に密着した商品として江戸時代の流通構造の一部に組み込まれてきました^^
しかし、1853年のペリー来航により事態は一変しました!
1858年、日米修好通商条約の締結により
開港場となった横浜から大量のお茶が輸出されました。
横浜には外国の商館が設けられ、
そこでの評価がそのまま商品の価値を決めるようになりました(・_・)
すなわち、いかに外国人に評価されるお茶を作るか?
ということが最重要になっていったのです😧
その後のお茶を取り巻く歴史は次回に続きます(^^)/
江戸時代の出来事を取り上げた過去の記事
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