明治から昭和初期〜茶生産の拡大と輸出〜(前編)


1853年のペリー来航により、

日本の茶産業は大きな影響を受けることになりました!


ペリーが開港を迫った目的は、

北太平洋における捕鯨の補給基地を確保する為だったと言われています。


しかし、実際に日本との交易が始まると、

生糸とお茶が最大の輸出品になりました!


お茶の輸出拠点になったのは横浜港でした。

開港に伴い、外国商館に建設地が割り当てられ多くの西洋建築が立ち並びました。


日本の茶商も横浜に出店を開いてお茶の売り込みを図りました^^


各産地から横浜に集められた荒茶は、

波止場近くに設けられた再製工場で火入れされ積み出され、

その工場は「お茶場」と呼ばれました!!



ここから明治時代に突入します( ´ ▽ ` )ノ


明治3年(1870)、サンフランシスコ工業博覧会で外国の博覧会に日本茶が初めて出店されました!


会場では喫茶店を設置して試飲なんかも行ったみたいです^^



この頃、政府は緑茶以外の紅茶や烏龍茶の生産にも着手して、

中国人を招聘して紅茶製造の技術取得を図ったり、

輸出先の嗜好と生産事業を調査する為、中国に多田元吉を海外に派遣しました!!


1876年、中国に続き、インドにも出張して日本人として初めてダージリンに足を踏み入れました!


そして日本に持ち帰ったインドの茶種は多田系インド雑種と言われ、

交配種を経て、現在の「べにふうき」になりました🙂


その後も主要産地で技術伝習会が開かれました。

中でも九州に自生する山茶の積極的な活用が図られました!


一方、海外商館による輸出に頼るだけでなく、

日本人が直接外国に茶を売り込むという直輸出も政府によって奨励されました!



そして、各地に輸出会社が作られるようになりました。

1875年、狭山会社(埼玉)、翌年積信社(静岡)、1882年、三重県製茶会社などが設立されましたが、

いずれも長くは続きませんでした(´・_・`)



その後、横浜に大谷嘉兵衛が中心となって日本製茶株式会社が設立され、

外国商館と共に日本茶輸出を推進しました^^


しかし、緑茶輸出が多くなる一方で利益を求めるあまり、

乾燥不十分の粗悪茶や着色茶を輸出するものが増加した為、


輸出相手国のアメリカは1883年に「贋茶輸入禁止条例」を制定しました😨


翌年日本は「茶業組合準則」を制定し、茶生産者に組合加入を義務付けました。


これにより、不正茶の製造を禁止して、各地に取締所を設置しました!


これによって全国で一斉に茶業組合が結成されました。




長くなりそうなのでここまでを前編として、今日はこの辺りで( ´ ▽ ` )ノ




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日本茶には喉の渇きを潤すだけでなく、味わい深いうま味や香りが詰まっており、飲むと心を穏やかに潤す力があります。 清寿園では一人でも多くの人に、日本茶の美味しさ、愉しさ、奥深さを伝えると共に、千利休が作り上げた「詫び茶」の世界観を象徴する「市中山居」という言葉のように、お茶を飲むことで、たとえ街の喧騒の中にいても心が落ち着き、山の中にいるような静けさをご提供できるよう、日々精進していきたい

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